「ロバート・フランクを送る、最後の面会」

清里フォトアートミュージアムでこの夏三ヶ月にわたって開かれていたロバート・フランク展。
「まだ車に乗れるよ」と誘ってくれた友人N氏に連れられ、その最終日に行けることになった。
実は、つい先日まで、もう見なくていいんじゃないかと思っていた。散々見たつもりだったし、その度に十分打ちのめされた。これからは自分の写真とだけ関わっていきたいという思いが強かった。
9月10日、家族だった愛犬ジーノの一周忌で思い出に耽っていたとき、前日の9日にロバート・フランクが亡くなったというNYタイムズの記事が目に止まった。「会えるときに会ったほうがいいよ」 とジーノが言ってる気がした。

中央道を走る間、次々と架かる虹に先導されて、静まりかえった朝の美術館に着いた。二組目だった。展示が開くまで中庭を見ていたら、何台かの車が到着して駐車場が埋まりはじめていた。
大規模な写真展は緊張する。あまりにも感情が揺さぶられ、その結果、受け入れる限界を超えて、気持ちが反応しなくなってしまった経験が何度もあったから。
まずひとまわり、入り込み過ぎないように見る。そのあとで見なおしたい気持ちが強い写真からもう一度丹念に見る。限界が近づいたら潔く止める。
感情の崩壊を起こさないために学んだ写真展を見る方法だ。
予習はしていた。行けると決まってから毎日、時間を見つけては「THE AMERICANS」のページを開いて見なおした。良い写真集とバイブルとまで言われる写真集の差は、度々見返す、その頻度に堪える抱えるものの厚みだ。飽きた、と思ったあとから、やっと本質が見えてくる。

実際に一枚一枚の写真を見た話は、ここにどう書いていいのか分からない。誰にでも伝わる情報なら、画面サイズが330X220くらいが多く、それは大四切りで焼いている自分のサイズとほとんど同じで、この大きさでいい、これで続けたいと思ったこと。アンダーパーフォレーションエフェクトの出た写真が何点もあり、トリミング&水平出しでアメリカンズに収められていること。逆光や光量不足の場面では写真のコントラストが下がることを気にしていないプリントで仕上げていること。検証作業で後年の撮影と思われる写真でも遡った撮影年で通してる作品が何点かあること。昨日焼いたような劣化の無いプリントばかりだったこと。それから、それから。

ひとつ、ずっと思っていて、今回もあらためて間違いないと思ったことだけ書いておこう。アメリカに流れ着いたヨーロッパ人でありユダヤ人のフランクが、アメリカのどこに行き、誰に会おうとも拭い去れなかった居心地の悪さ、よそ者としての自覚、周囲に抱く違和感、それがシャッターを押させている。
彼が告発したといわれるアメリカの暗部、出来上がった写真集の歴史的、政治的、社会的な意味というようなものは、後付けの副産物に過ぎない。そこに存在意義を見いだすのは評論家の仕事、写真家であればシャッターを押させたフランクの気持ちにだけ寄り添えばいい。

同行のN氏が言った。
「被写体を獲物のように自分のものにしていったブレッソンとは全然違いますね」
そう、どこまでいっても、そこに写っているものはフランクが見ることになった現実という対象であって、写真にするための獲物ではなかったんだ。

これからも5年10年という周期で、どこかでロバート・フランク展は繰り返されるだろう。でももうボクはいいんだ。今日この展示で最後にする。安らかに。

Nさん、ありがとうございました。

FILM CAMERA STYLE vol.5

フイルムカメラスタイルの5号が発売になりました。表2見開きのフォクトレンダーの広告に写真を使っていただき、編集ページでも撮らせて頂いています。撮影に使用したレンズはNOKTON Vintage Line 75mm F1.5 Aspherical VM とNOKTON clsssic 35mm F1.4 Ⅱ です。ぜひ、手にとって御覧ください。よろしくお願いします。