見る

『私は絵の鑑賞法についてはまったくの素人である。人に教えられたこともないし、とくに専門書で学んだこともない。ひとりで勝手に好きだ、きらいだときめ、森の気ままな散歩者のように美術館に入っていき、眺めていき、通過していくだけである。その好き、きらいも、たいてい、最初の一瞥できめてしまう。最初の一瞥で眼をうたれなかったらどんな“名作”のまえに三時間佇んで凝視をしても徒労である。わかった顔をして無理な議論をするのはしんどい。ときには議論をしていてハッと愕かされるような意見に出会うことがあるが、そこでもとの画を見なおしても、あまりピンとこない。愕くのはその人とその意見についてなのであって、それは貴重な知覚であるから大事にしたいが、だといって最初の一瞥で得たもの、得なかったものがその意見によって変貌を起すということがない。』

「見る」 開高健 より

大好きな開高健は、小説家、エッセイストという肩書だから言葉の人と言っていいでしょう。その言葉を何故魅力あるものとして私が受けとめられるかといえば、言葉を綴る前に五感の刺激に敏感であり、そのことに正直であるからです。引用した文章の「絵」は「写真」と置き換えられます。そして後半の文章は、逆説的に今どきの写真周辺に巣くう言葉の人々の存在を浮かび上がらせます。つまり、自己の思考と論説の下に視神経の刺激を押し込めた人の文章には魅力がないのです。上の文章を見つけたとき、さすが開高さん!と微笑んでしまいました。ただこの「一瞥できめてしまう」ときに、その人の人生が現れ出るわけで、軽薄な一瞥を肯定するものではありません。